マルイユ=シュル=アイとエペルネからランスへ。そしてロンドン、ニューヨーク、香港の名だたる食卓へ。
8つのチャプターでたどるメゾンの物語
プロローグ · パリ、1853年
1853年、パリのある百科事典がシャンパーニュの名だたるメゾンを書き記しました。モエ・エ・シャンドンとジャクソンのあいだに、Boll et Cieというメゾンの名がありました。
「この商いを営むメゾンの多くは非常に古い歴史をもつ。なかでも特に、ヴーヴ・クリコ、デュック・ド・モンテベロ、モエ・エ・シャンドン、シャノワーヌ・フレール、Boll et Cie、ゲルデルマン・エ・ドゥーツ、ジャクソン・エ・フィスの名を挙げたい。」
『Dictionnaire de la conversation et de la lecture』「Champagne」の項、1853年 · 翻訳

その名を持つ人物
シャンパーニュ・メゾンを率いたアルザス人。
メゾンの名は、1837年1月30日にアルザスのワインの都コルマールで生まれたAntoine François Joseph Bollに由来します。1853年にメゾンの名が初めて記録に現れたとき、彼は16歳の少年でした。やがて彼はメゾンを率いる存在へと成長します。
大西洋の両岸の業界で、彼はBoll & Co.の当主として、ただ「Jos. F. Boll」と署名していました。
兄弟たちもこの冒険に加わりました。Adolpheはのちにニューヨーク事務所を開き、Émileはパリで暮らしました。





チャプター
マルイユ=シュル=アイとエペルネ · 1853 – 1870
Boll et Cieの最初の拠点は、シャンパーニュで最も名高い斜面に囲まれた、マルヌ川沿いのぶどう栽培の村マルイユ=シュル=アイにありました。
マルヌの栽培家とワイン商
1855年のパリの大商業年鑑は、マルイユのぶどう栽培家・ワイン商のひとつとして「Boll et Cie」を、ビルカール・サルモンやデュック・ド・モンテベロと並べて掲載しています。
その翌年、ロンドンの報道はエペルネのこのメゾンを、自社畑を所有するpropriétaires vignerons(ぶどう栽培者)として紹介し、「自らのぶどう畑から」シャンパーニュを造っていると伝えました。
アーカイブより
Boll & Cie à Épernay
初期のラベルには、誇り高い約束が記されていました。シャンパーニュの言葉でクレームとは、収穫の中から選び抜かれた最上のもの、すなわちクレーム・ド・ラ・クレームを意味しました。そしてブジーは、ピノ・ノワールで名高い、モンターニュ・ド・ランスで最も格調高いグラン・クリュの村のひとつです。
甘いリキュールではなく、最良の年の最上の果汁から生まれる格調高いブレンドです。





エペルネ · ニューヨーク · サンクトペテルブルク
1860年には、メゾンはエペルネのコメルス通り25番地に本拠を構えていました。名だたるシャンパーニュ・メゾンが並ぶこの通りは、1925年にアヴニュ・ド・シャンパーニュと改名されます。
同年の年鑑はBoll et Cieについて「maisons à New-York, et à St-Pétersbourg」、すなわちニューヨークとサンクトペテルブルクに自らの拠点を持つと記しています。


チャプター
ロイヤル・サリー・ガーデンズ · ロンドン、1856年7月
1856年の夏、ロンドンはかつてない規模のコンサートホールを開きました。そこで供されたシャンパーニュは、Bollのものでした。
ロイヤル・サリー・ガーデンズは「女王陛下のご後援のもと」巨大なコンサートホールを開き、1,000人の演奏者と毎晩の花火で人々を迎えました。経営陣は、ロンドンの遊園庭園で出される怪しげな「シャンパン」よりも良いものを求めていました。
彼らはエペルネに代理人を派遣し、代理人は「名声高きCreman, Joinny, Boll, and Co.」との契約を携えて戻りました。
飲食を取り仕切ったのは、パリで最も流行していた仕出し店、ブールヴァール・デ・ジタリアンのポテル・エ・シャボ。Bollのシャンパーニュは庭園じゅうのビュッフェで、グラス一杯6ペンス、ボトル1本5シリング6ペンスで注がれました。

「観客はこれまで味わったことのないもてなしを心から楽しんでいたようで、その消費量はじつに驚くべきものだったと聞く。」
The Musical World、1856年7月19日

チャプター
ペック・スリップ · ブロード・ストリート · ブロードウェイ
Bollは早くから西へ目を向けていました。
ウォール街から数歩
パリの年鑑にはニューヨークとサンクトペテルブルクに拠点を持つBoll et Cieが記録されており、1870年代にはJoseph Bollが自らのシャンパーニュをニューヨークへ輸入していました。
1882年11月、業界紙は、Bollがアメリカで「弟のAdolphus Boll氏によって」代表されるようになったと報じました。事務所はウォール街から数歩のブロード・ストリートにありました。
ニューヨークのBoll & Cieの所在地 ↗




1878 · ニューヨークでの4件の訴訟
模倣されるのは、模倣する価値のあるブランドだけ。
成功は模倣者を呼びました。1878年、Jos. F. Bollはニューヨークの合衆国巡回裁判所で、自らの商標とラベルを模倣した業者を相手に4件の訴訟を起こしました。
ペック・スリップからブロードウェイへ
1879年の代理店はペック・スリップのI. H. Smith's Sonsで、同社はグランド・シャルトルーズのカルトジオ会修道士たちの代理も務めていました。
1884年1月には「ランスのBoll & Co.の当主、Joseph F. Boll氏」自らが大西洋を渡りました。
1886年12月からは、ニューヨーク社交界御用達の食料品店Park & Tilfordが全米の独占代理店となり、ブロードウェイ、五番街、六番街に4店舗を構えていました。1887年にはサンフランシスコ市場でも取引され、19世紀にニューヨークとサンフランシスコの両方で販売された数少ないシャンパーニュ・ブランドのひとつとなりました。


チャプター
サラトガ · デルモニコス · フルトン・マーケット
サラトガ・スプリングスは、アメリカの金ぴか時代の人々が夏を過ごした地。グランド・ユニオンは、その最大にして最も壮麗なホテルでした。
サラトガ・スプリングス
1880年のグランド・ユニオンのワインリストは「Boll & Co., Très Sec」で始まります。最初に名を挙げられたシャンパーニュで、マム、ロデレール、ヴーヴ・クリコよりも上に記されていました。1881年8月26日のメニューにも再び登場します。


デルモニコス、ニューヨーク
Boll & Cieのワインは新世界でも高く評価されていました。アメリカで最も名高いレストラン、デルモニコスのメニューがそれを物語っています。
1883年4月12日、ニューヨークの医学界はそこでオリバー・ウェンデル・ホームズを讃える晩餐会を開きました。その夜のシャンパーニュは「Champagne Boll & Co. Special Sec」でした。





ドーロンズの牡蠣
Bollはフルトン・マーケットの有名なオイスター・サルーン、ドーロンズで注がれ、紳士クラブの名簿『Club Directory of the United States』にも広告が掲載されました。
チャプター
ランス · 戴冠の都
1870年代半ばまでに、Boll et Cieは名門シャンパーニュ・メゾンの都、ランスへ移っていました。
輸出メゾンのひとつとして
1875年のDidot-Bottin年鑑は、Boll et Cieをランスのシャンパーニュ・メゾンのひとつとして掲載しています。
1876年のヨーロッパ商業便覧は、ポメリー、ヴーヴ・クリコ、ルイナール、エドシック、マム、ロデレールと並べて、「ランスに拠点を置き、シャンパーニュ・ワインの輸出に従事する」商社のひとつとしてその名を挙げています。
des vins de Champagne
1882年9月、ランスのメゾンは主要なネゴシアンが署名した共同書簡によって、地方紙上で声をひとつにしました。
Boll et Cieは、今日のユニオン・デ・メゾン・ド・シャンパーニュの前身であるシャンパーニュ・ワイン商組合(Syndicat du Commerce des Vins de Champagne)の一員として、彼らとともに署名しました。
18世紀のシャンパーニュ・メゾン ↗

チャプター
シティ · ファーニヴァルズ・イン · ピカデリー
ヴィクトリア朝のロンドンで、Bollはシティで最も有名な晩餐会のシャンパーニュとなりました。
レドンホール・ストリート、シティ・オブ・ロンドン
ウミガメのスープの殿堂、レドンホール・ストリートのシップ・アンド・タートルでは、1883年のメニューがウミガメの形に印刷されていました。そのシャンパーニュは「Magnums. Boll and Co.'s Ex. Qte. 1874 Vintage.」
この酒場の経営者ペインター兄弟は、ロンドンにおけるBollの代理人でもありました。

「偉大なワインであり、しかも価格もじつに手頃だ。」
Boll 1874について、ある社交コラムニスト · ウッズ・ホテル、1886年
「見事なシャンパーニュ。Boll and Co.、記憶に残すべきブランドだ。」
同じコラムニスト、数週間後 · シップ・アンド・タートルにて
連隊の晩餐会と名高い美食家
連隊は1897年と1899年の晩餐会にBollを選びました。
名高い美食家ニューナム=デイヴィスの不満はただひとつ。Bollが十分に冷えていなかったことでした。

ロンドンの酒商価格表 · 1896年8月
1ダースあたりのシリング
チャプター
ハロッズから香港へ · 1896 – 1904
1890年代、Bollはコレクター、クラブ、そして高級百貨店のためのシャンパーニュでした。
ハロッズのBoll & Cie
ロンドン・タイムズに広告を掲載し、ロンドンのハロッズに納入。Boll & Cieの1884年と1892年のヴィンテージを提供しました。
Harrod's Storesは1884年ものを1,000ケース、1892年ものをおよそ250ケース、「株主、顧客、クラブ、ホテル、レストラン、そして一般の皆様」に向けて提供しました。その1年前の1896年7月には、ロンドンのScott & Loft社がイギリスおよびアイルランドの独占代理店に任命されていました。





輸入元はA. S. Watson & Co.のみ
ヴィンテージはその後も長く珍重されました。1898年のクリスティーズでは、ピカデリーの紳士のセラーから出た1892年もの3ダースが、1ダース65シリングで落札されています。
その名はさらに遠くへ旅しました。1900年5月、Hong Kong Daily Pressは、植民地随一のワイン商A. S. Watson & Co.の広告を掲載しました。「An Excellent Wine. Boll's Champagne. Imported only by A. S. Watson & Co.」
1904年頃のドイツの愛好家向け便覧にも、なお「Boll et Cie., Reims, qualité extra, très-sec」の名が記されています。



1856 – 1900
チャプター
ランス · 1918 – 1922
Boll & Cieのランスにおける最後の住所は、今もこの街を代表するシャンパーニュの住所のひとつです。

ランスのクルランシー地区
1918年と1922年の年鑑には「Boll & Co, rue Courlancy, 66」と記されています。その名は第一次世界大戦を乗り越え、1920年代初頭のランスの年鑑にもなお残っていました。
1920年代後半、シャンパーニュ・ランソンがクルランシー通りのセラーと土地を取得しました。今日、同じ住所はシャンパーニュの歴史の生きた一部となっています。



注記
66Boll & Cieのかつての住所、ランスのクルランシー通り66番地は、現在シャンパーニュ・ランソンのセラーと本社となっています。
ひと目でわかる歩み · 1853 – 現在
眠りの一世紀
1897年にAntoine Bollが世を去ると、かつて名を馳せたメゾンは百年以上にわたり眠りにつき、ごく一部の専門家にのみ知られる存在となりました。約20年前、この伝統あるメゾンに新たな命が吹き込まれました。以来、そのシャンパーニュは主に世界のトップレストランで提供され、世界各地の星付きレストランにも並んでいます。そして最近では、それ以外の場でもお楽しみいただけるようになりました。
21世紀初頭に復活したメゾンは、いまかつてないほどの輝きを放っています。
出典
歴史的な引用は当時の資料によります:Dictionnaire de la conversation(1853年)、Didot-Bottin(1855–1922年)、Illustrated London NewsおよびThe Musical World(1856年)、Journal du département de la Marne(1860年)、Bulletin des lois(1880年)、Bonfort's Wine and Spirit Circular(1882–1887年)、Pall Mall Budget(1883年)、St. Stephen's Review(1886年)、Harper's Bazaar(1886年)、The Wine & Spirit Gazette(1896–1897年)、Christie, Manson & Woods(1898年)、Hong Kong Daily Press(1900年)、マルヌ県立古文書館、ニューヨーク公共図書館のメニュー・コレクション、そしてメゾンのアーカイブ。引用はいずれも翻訳です。
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